深いところの気持ち

デイリーポータルに書き始めたばかりのころは、取材中にかなり細かくメモを取っていた。ふっと思ったことを書き留めて、あとで記事の文章に使おうと思っていた。

しかし、あとでそういうメモを見返すと、おもしろいことを何一つ書いていない。
「もう疲れた」「早く終わりたい」「この取材本当に面白くなるだろうか」
とかそんなのばっかり。そういうことを書いちゃう手もあるけれども、そればっかりじゃ原稿にならない。

最近では撮影した写真を見ながら、その時の自分の気持ちを推理して一人称で書いている。
こういうやり方は一見リアルっぽくないように思えるけれども、むしろこの方がその時の自分のもう少し深いところの気持ちには迫れているような気がするのだ。行動しているときにふっと湧いてくる言葉は、それはそれで本音なんだけれども、体のコンディションとか状況判断のことに寄り過ぎている。

取材じゃなくても、本業の仕事でも同じことを思う。仕事中も「疲れた」とか「この手技で本当に大丈夫だろうか」とか「こんなことをやって採算合うのだろうか」ネガティブなことを考えることが多い。でもそれが僕の仕事に対する本懐かというとやはり違う。後で一連の手順や様子を振り返ったり、なんで自分がこんなことをしているのか、とかまで含めて考えると、これは相当自分でも信じられないような崇高な動機でやっているということに改めて気づく。

どっちが良い悪い、ということではない。でも進行中の最中にいる時には、まだ浅いところの方の気持ちにとらわれがちになる。いろいろ思い出しながらやった方がいいと思う。

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